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新緑がまぶしい季節になりました。豊岡市泉町にある「寿公園」です。
豊岡出身で、鉱山王としても知られる「中江種造」氏は、豊岡の町に上水道を敷設するため、大正10年、当時のお金で33万円の私財を寄付しました。これは、工事費の全額に当たります。完成時と配水地増築に当たっても寄付を重ね、総額38万円を超えています。
これにより、兵庫県下でも比較的早く、大正11年に上水道が完成しました。5月11日はその竣工の日です。
また、毎年上水道事業の収益金の一部を奨学金として積み立てるようにという条件をつけています。
市民は、その恩恵を忘れないよう、大正14年翁の80歳を祝って、寿公園に銅像を建立し、毎年顕彰のため「水道まつり」を開いてきましたが、今年は「新型コロナウイルス感染症拡大防止」のため、式典が中止になりました。
寿公園は、碁盤の目に整理された市街地の道路のなかに、パリの凱旋門通りを思わせるちょっと異質なロータリーになっています。その中心部に、椅子に座って豊岡市内をいつくしむように見つめる「中江種造翁」の銅像があります。
豊岡の市街地は、従来の円山川沿い中心の町並みから、明治から大正にかけて鉄道敷設、円山川大改修など大事業が続き、明治42年に開業した豊岡駅を中心にした町づくりへと大きな区画整理が行われていましたが、「関東大震災」の翌年、大正14年に起きた「北但大震災」で隣の城崎町を含め、市街地の大半が焼失する大きな被害を受けました。
努力の結果現在の復興を成し遂げましたが、東日本大震災などの大災害の早期復興を願う気持ちが豊岡市民に人一倍強いのも、こうした経験があるからでしょうか。
豊岡市街地には、豊岡市役所旧庁舎をはじめ、ところどころに防災を意識した当時の復興建築が残っています。
映画館「豊岡劇場」。壁面に「八芒星」のレリーフがあります。
診療所、ギャラリーとして復活した「旧但馬労働監督署」
壁面を銅版で覆った「うろこの家」のような外観。現在は無人の倉庫です。
3軒の商店が連なった外壁。
アーケードにかくれて気づきにくいですが、周辺には同じような外観のお店がほかにもあります。
「鈴」の絵の下に「木」をデザインした「鈴木商店」のマーク。わかりましたか。
「旧山陰合同銀行」(現在は「豊岡1925」)
以前の豊岡市役所旧庁舎(現在は「市民交流センター稽古堂」として庁舎前に移動して保存されています。
現在の「市民交流センター稽古堂」
5月23日が、その「震災記念日」で、市内各地でこれに併せた防災訓練などが実施されています。
元町交差点付近にある「三井住友銀行豊岡支店」の道をはさんでななめ西側に「御霊神社」があります。
豊臣秀吉の「但馬征伐」のあと、この地を治めた「宮部善祥房継潤(みやべぜんしょうぼうけいじゅん)」を祀る神社で、この地を治めるにあたり近在五町に対し年貢を免除しましたが、これに感謝した町民が、ここに祀ったといわれています。
5月10日には、かつて「豊岡で一番早い夏祭り」といわれた例祭がありました。
境内の桜の古木。今は若葉がきれいです。
境内にある由来記
ここから、市街地の北東に行くと小田井神社があります。但馬五社の一つで、8月には境内にある「柳之宮」の祭礼として「柳まつり」が開催されます。
「豊岡かばん」の源流となった「柳ごおり」は、豊岡藩主「京極氏」の奨励により大きく発展し、円山川の水運を利用して全国に出荷され、豊岡の一大産業になりました。
このあたりは、かって「出町(でまち)」といわれ、円山川の水運を利用した船着場「いと場」があり、豊岡の玄関口でした。
いと場の記念碑が鳥居の脇に建てられています。
また、豊岡市出身の直木賞作家「藤井重夫」の小説「佳人」の舞台となった場所であり、昭和33年、池部 良、芦川いずみ主演で、日活で映画化されましたが、小田井神社周辺でロケも行われています。
小田井神社前の交差点には、「堀川不動明王」があります。不動明王は、大日如来の化身で悪魔、災難から衆生を守るといわれています。
また、その隣には国土地理院の定める「水準点」の標識があります。水準点は、測量の基準となる場所を示すものです。
すぐ上の堤防に上がると、対岸に「大石りく遺髪塚」の場所を示す看板が見えます。忠臣蔵で有名な「大石内蔵助」の妻「大石りく」の遺髪を納めたところです。
参道の登り口には「ハナミズキ」がきれいに咲きます。
境内の「フジ」ももう少しで見ごろを迎えます。
ここには、高浜虚子と親交の深かった「京極杞楊(きよう)」の句碑、と作家「平岩弓枝」がモデルにした小説「花影の花」の碑があります。